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まちの成り立ち

大陸文化への玄関口として1,300年以上の歴史が続く
太宰府に流れてきた”時”を学ぶ。

大陸との交流拠点であった遠の朝廷や、菅原道真が祀られる太宰府天満宮で有名な太宰府。
長い時を超えて人々が行き交い、歴史が積み重ねられてきたこの地のまちの成り立ちの一部をご紹介します。歴史を学び、文化に触れることで、今まで知らなかった太宰府を発見できる、心が豊かになる探求の旅をお楽しみください。

歴史と文化の交差点
太宰府

古くから大陸との交流があった筑紫地方に、7世紀後半に設置された大宰府。
防衛、そして大陸との交流の拠点として置かれた「遠の朝廷」は、次第に九州全体を治める役所へと変わっていき、多くの貴族や高僧が訪れる、政治・文化・経済の一大拠点となりました。

その後、菅原道真を祀る太宰府天満宮を中心とした門前町として栄えたこのまちには、時代を経て庶民から高貴な人まで、多くの人が往来してきました。

今もなお毎年700万人以上が訪れる観光都市である太宰府ですが、そこには太宰府天満宮だけでない、紡がれてきた歴史や文化を感じられる数多くの文化財や建築物が残っています。

HISTORY 01

大陸からの玄関口

古くからアジア諸国に向けて開かれていた太宰府は、西アジアやヨーロッパとの交流の拠点でした。大陸から届いた最先端の技術や文化、思想にいち早く触れ、日本各地へ広める重要な役割を担っていた太宰府は、まさに日本の玄関口です。

遣唐使が持ち帰ってきた物の一つに、太宰府の歴史を語るうえで欠かせない「梅」があります。万葉集の「梅花の宴」は、渡来した梅花を愛でる宴で詠まれた歌であり、「令和」の起源としても有名です。

HISTORY 02

菅原道真と太宰府天満宮

太宰府は菅原道真が無実の罪で左遷された場所としても有名です。
学者・政治家として優秀で、遣唐使の廃止などで国風文化の礎ともなった菅原道真ですが、彼の出世をよく思わない人々により失脚させられ道真は2年後にこの地で亡くなります。
すると、左遷に追い込んだ人に次々と不幸が訪れ、これは「道真公の祟り」と恐れられます。太宰府天満宮はこの祟りを鎮めるために、道真公を祀る神社としての御墓所の上に建立されたのです。

それ以降、道真公は学問の神様・文化芸術の神様・厄除けの神様として崇敬され、太宰府天満宮は天神信仰の聖地として多くの人々の心のよりどころであり続けています。

本殿のすぐ横に立つ「飛梅」は、左遷された道真公を追って、都から一夜にしてこの地に飛んできたと伝えられ、太宰府天満宮の御神木として崇められいます。

HISTORY 03

門前町の発展と賑わい

以降、太宰府のまちは、天満宮を中心に形成されてきました。
江戸時代には、庶民が太宰府天満宮に参詣する「さいふ詣り」の流行、幕末には五卿や各地の藩士の往来により、参道沿いは多くの宿で活気づきました。
明治時代には「菅原道真公御神忌一千年大祭」をきっかけに現在の西鉄太宰府線が馬鉄として開通し、参道沿いには土産物屋・飲食店・商店が増加しました。
紡がれてきた歴史や文化は今もまちに賑わいとして残ります。
鳥居や道標からは、かつてのさいふ詣りの道のりを感じさせ、
参道には、幕末に坂本龍馬、西郷隆盛が往来した際に泊まった宿舎が立ち並び、激動の時代を感じさせます。
かつて、まちの人に愛されていた料亭、天満宮に食材を納めていた魚屋であった当ホテルもまた、参道の賑わいを残す場所の一つです。